私は雑談が苦手だ。オフィスにいても、自然発生する雑談に乗っかっていく程度で、得意な方ではなかった。リモートになってからは、その苦手意識がさらに強まっている気がする。なぜ自分は雑談が難しいと感じるのか、少し考えてみた。
リアルタイム性が求められるフリートークが難しい
登壇は好きだ。自分が話したいテーマを、30〜40分間、誰にも遮られずに話せるなんて最高だと思う。勉強会の懇親会も好きで、スピーカーに話を聞きに行ったり、登壇していたら質問してもらえたりするのも嬉しい。だから、話すこと自体は多分好きなのだと思う。ただ、これは事前に準備できるからこそ楽しめるという側面がある。雑談はフリートークだ。準備ができない。その場の流れを読み取りながら、自分の考えを整理して発話する。しかも会話のテンポに合わせて“自分のターン”が突然回ってくる。これが本当に難しい。 話すネタがないときは、気づけばROM専になって、ただ聞いているだけの人になってしまう。雑談という“プレイヤーの輪”の外側に立っているような感覚になるのだ。
自分の話が何かを与えられないと考えてしまう問題
雑談自体は嫌いではない。むしろ昔は好きな方だった。オフィスにいた頃は、誰かが話している輪に自然に混ざることもあった。ただ今思えば、それは自分が得意な領域の話題のときだけ参加していた気がする。 「自分の話が相手にとってプラスになりそう」そう思える時だけ話に入っていた。 逆に、そうでない時は「特に面白い話もないし、話さなくてもいいか」となってしまう。自分の話が誰かに価値を与えないなら、沈黙していた方がいいと思ってしまうのだ。この「雑談にも貢献しなければならない」という無意識の縛りが、会話をさらに難しくしている気がする。
雑談をする意味
苦手なら避ければ良い――そう思うこともある。
雑談をしなくても、仕事はできる。チャットツールで用件だけを伝えれば進行もする。わざわざ気を使って話題を探す必要もない。用件だけの会話は効率的ではあるけれど、人と人の間にある「温度」みたいなものが抜け落ちてしまう。そこには信頼も冗談も、ちょっとした安心感もない。雑談には、直接的な成果はないかもしれない。けれど、雑談を通してしか生まれないものが確かにあると最近感じる。 たとえば、相手の表情から“今少し疲れているな”と気づけたり、自分の何気ない話が誰かの緊張をほぐしたりする瞬間。そういう小さな積み重ねが、関係をゆるやかに強くしていく。雑談は、信頼の前提をつくる行為だと思う。雑談は成果ではなく、土壌だ。本題や建設的な議論が根を張るための、目に見えない大地みたいなもの。
「向き合っていこう」そう思いながら雑談が発生しそうなイベントの出欠確認に欠席と印をつけた。